ビッグX

 

   ビッグX

「ビッグX」は手塚治虫作・画による漫画作品で、集英社の月刊漫画雑誌「少年ブック」に1963年11月

〜1966年2月まで連載され大ヒットしました。


“ビッグX”とは、第二次世界大戦中にナチスのヒットラー総統の命により、不死身の兵士を生み出すべく、

日本の科学者・朝雲博士とナチスドイツが共同で開発した薬品で、生物の体を鋼鉄のような硬さに変化させ巨

大化できるというものです。朝雲博士はこの薬品の軍事利用を恐れ、息子へその秘密を託し亡くなります。そ

して戦後、その薬品を受け継いだ孫の少年・朝雲 昭が、それを使って世界征服をたくらむ秘密結社ナチス同

盟に戦いを挑みます。ビッグXは、液体状の薬品で注射針を内蔵した特殊なシャープペンシルに仕込んであり

、そして、その分量を目盛りに合わせて変えながら注射することで、肉体を強化したり巨大化したりと、その

効果を調節できます。そうして、この薬品により鋼鉄の体を持った少年・昭が果敢に悪との戦いに挑むという

スーパーヒーローアクションです。


また、テレビでは東京ムービー社による製作で1964年8月〜1965年9月までTBS系列局で放映され

ました。手塚治虫テレビアニメとしては初めて手塚と直接関わりの無い外部のプロダクションの元請によって

製作された作品です。東京ムービーは、テレビアニメ「ビッグX」を製作するため設立された会社で、同時期

の虫プロ版鉄腕アトムなどと比べてもかなり作品は劣っており、当時の大人達は、このアニメ版のビッグXを

“ビックリX”と茶化したのは有名な話として残っているようです。実際、当時の視聴可能な「ビッグX」の

作品を見ると動きがガタガタだったり、絵柄がシーンごとに異なっていたりと雑な制作だったようです。それ

でも、主人公の朝雲 昭がビッグXとなり、敵をやっつけていく様は当時の子供達は大変熱中したようです。

尚、ビッグXは「薬品の名称」であると共に、それにより「変身した主人公」の二通りの名前でもあります。


このアニメ製作が東京ムービーになった経緯ですが、TBSテレビはこの時すでにテレビアニメ「エイトマン

」を放映しており、この「エイトマン」を製作依頼していたTCJにテレビアニメ「ビッグX」も発注しよう

と考えましたが、この時、既にTCJはフジテレビの「鉄人28号」も抱えており週2本の製作で余力はなく

、結局、別の製作会社に発注するほか選択肢がありませんでした。

そこで、苦肉の策として人形劇「伊賀の影丸」製作のために設立された東京人形シネマの藤岡 豊に「人形を

動かすのも絵を動かすのも同じだろう」という理由で、アニメの製作プロダクション設立を促し、新会社「株

式会社東京ムービー」が発足しました。


当初はテレビアニメ製作未経験のスタッフばかり集められたらしく、経営陣も人形劇団出身者で占められ不慣

れなアニメ制作となったようです。そして第1回作品「ビッグX」を製作するも、大赤字を出し経営危機に陥

り、倒産寸前となってしまった東京ムービーは、テレビ製作会社国際放映(旧、新東宝)の傘下となり、経営

再建を図ることになりました。東京ムービーの新社長には国際放映の阿部鹿三が就任し、創業者の藤岡は取締

役制作部長に降格しました。

1965年12月、藤岡は、東映動画で契約社員として作画監督をしていた楠部大吉郎に声をかけ、楠部が代

表者となって有限会社エイプロダクション(現、シンエイ動画)を設立。そして東映動画からアニメーター4名

を招き入れることに成功しました。これは「ビッグX」での経験から制作体制の整備が最重要との考えからで

した。東京ムービーとエイプロダクションは業務提携(資本提携なし)の形をとり、東京ムービーは企画・管理

を担当し、作画・撮影など実制作をエイプロダクションに委託する体制をとりました。以後「オバケのQ太郎

」「巨人の星」「アタックNO1」などのヒット作を飛ばし、1971年に東京ムービーは国際放映から独立

し、藤岡が社長に返り咲きました。


「ビッグX」については、後日、手塚治虫漫画全集「ビッグX」第4巻の手塚自身のあとがきで「ヒットはし

ましたが、ぼくとしてはあまり好きな作品ではありません。やたらと正義の味方ぶるからです」と、この作品

にはあまり思い入れがなかったようで、手塚はテレビアニメ化に対しても消極的だったようにも思えます。

(掲載文、TezukaOsamu.net 他より一部抜粋)


 

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