ヒマラヤ天兵

 

  ヒマラヤ天兵

「ヒマラヤ天兵」は棚下照生(たなか てるお)の漫画作品で、月刊漫画雑誌「おもしろブック」(少年ブック)

に1959年1月〜1960年6月まで連載され人気を博しテレビ化されました。


テレビでの「ヒマラヤ天兵」は、同・棚下照生の原作で1959年8月〜1960年9月までの間、全58回を

TBSで放映しました。主演は、松本松之助(三代目、市山松翁)で18才のときの作品です。

松本松之助は高校卒業後、先代・松本幸四郎師(八代目)に部屋子として入門し歌舞伎修行に入り、1959年

9月、明治座に於いて六世家元を襲名しました。


このテレビ時代劇「ヒマラヤ天兵」に三田佳子が共演しています。(上記、掲載めんこ参照)この時が三田佳子

のテレビデビュー作でもあり、松本松之助と同じ18才での出演でした。

三田佳子はこのテレビ作品の出演で演技力を買われ、1960年高校卒業と同時に東映に入社。同年5月「殺ら

れてたまるか」で梅宮辰夫と共演し女優デビュー、同年10月までの僅か5カ月間のあいだに梅宮辰夫との共演

7作品が劇場公開されました。三田佳子は最初から主役級として起用され、看板スターとして活躍しました。

東映時代は、佐久間良子と常にライバル視され、その後1967年に東映を退社しフリーになり、映画のみなら

ず、テレビや舞台で幅広く活躍することになります。

このテレビ時代劇「ヒマラヤ天兵」は三田佳子にとっては女優になるきっかけの作品でした。


また、原作者の棚下照生は、この「ヒマラヤ天兵」作品発表の8年後の30才のとき、代表作ともなる「めくら

のお市」(芳文社)が生まれ、なんと10年も連載が続きました。この「めくらのお市」シリーズは、松山容子

主演で映画やテレビになり、この出演が縁となり松山容子は棚下照生と結婚しました。


棚下照生は平成15年に肝硬変で死去されましたが、幸せな結婚生活だったようです。松山容子の後日談で「今

はまったく女優としての活動はしておりません。一番最近の仕事ですか? もう9年前になりますか、三越劇場

であった西川きよしさんの息子さん主演のミュージカルに、観音様の役で出させていただきました。それを主人

の棚下照生がこっそり見に来て、どこかの記者の方に“家内はトシをとっても華があるし、座っただけで幽鬼漂

う芝居ができる”といったらしいですの。それを聞いてうれしくなり、また機会があったら、と思っているうち

に21世紀になってしまいました」また、棚下照生氏と結婚したことについては「主人は16才のときに九州か

ら単身上京し、戦災で焼けた公衆トイレをねぐらにしながら、独力で漫画を勉強し、劇画家として売れっ子にな

った苦労人です。私とは育ちも考え方もまるで違っていましたが、人間的にとても温かみがあり魅力的でした。

結婚後、主人が“僕が彼女を口説いたんじゃない。僕が彼女に口説かれて一緒になったんだ”ってしばしば口に

しましてね。多くの方は冗談だと受け取ったようです。でも、それは本当の話。私はすっかり主人に魅了され、

魂を奪われてしまったんです」(ゲンダイネット平成17年1月4日・5日掲載より抜粋)いい話ですね。

なお、棚下照生の座右の銘は「やっただけしか神様は手助けしてくれない」との言葉でした、正に松山容子がい

うような人だったのですね。

(敬称略。松山容子関連:「変幻三日月丸」「天馬天平」めんこコーナー)

 

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