赤胴鈴之助(梅若正二)

 

赤胴鈴之助(桃山太郎)

 

 

  赤胴鈴之助

月刊漫画雑誌「少年画報」に1954年7月(8月号)から連載された武内つなよしの漫画が原作で、ラジオ

ドラマとしても1957年1月〜1959年2月まで、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で放送されました。


このラジオ放送の中で、千葉周作の娘・さゆりの声を担当していたのが吉永小百合で、放送開始の1ヶ月前に

オーディションで選ばれました。このラジオ放送が吉永小百合にとっての芸能界デビューで、小学6年生の時

でした。

また芸名の小百合は、本名も吉永小百合で、このラジオの“さゆり”人気高く、そのまま本名を使う事になっ

たようです。(なお、現在の吉永小百合の本名は、岡田太郎氏と結婚し岡田小百合となってます)

当時の少年たちは主役の鈴之助よりも、さゆりが出てくるのを心待ちにしてラジオ放送に聞き入ってました。


後日談ですが、吉永小百合は、この時の芸能界入りや、その後の映画人生を2015年11月の報道ステーシ

ョンでの対談で次のように話しています。

「家がとても貧しかった為に、ラジオドラマの子役でデビューして、一生懸命家計の少し助けになるかしらと

思って中学生くらいまではやってたんですね。高校生になって、勉強をしっかりとやろうと思ったんですけど

映画会社に入ることになって、だから自分で決断してこの道を選んだ分けではなかったんです。それが、だん

だん年を重ねて行く内に“映画の仕事の楽しさ”とか“映画の持つ意味”みたいなものを感じるようになって

、良い映画は100年残ると思うんです『キューポラのある街』も50年残ったので100年残るような映画

を作りたいなと思うんですね。(私には)子供がいませんので、映画が子供みたいな思いでやってるんです」

この対談を聞くまでは、裕福な家庭で育った良家出身のお嬢様かと思ってました。小学生の頃から優しさや、

思いやりを身につけた素晴らしい人だったんですね。

また、特に映画に対する考え方が変わったのは、「私はずっと、なんとなく俳優になって、ずるずるとやって

来ましたので『はい』と『いいえ』があまり言えなかったんですよね。それで30才過ぎてから映画で高倉健

さんとご一緒した『動乱』という映画に出て一年間素晴らしい映画創りに参加して、ああ私もう一回この世界

でやってみようと(あらためて)思いました。そのためにはきちんと自分で『これはやります』『これは出来

ません』ということが言えるようにならないと、精神的に独立できないんだと思いました。それから少しずつ

そう言う事が言えるようになったし、また色んな社会のことにも目を向けられるように少しずつなったと思っ

ています」 とも話しています。高倉健が吉永小百合に与えた影響は、かなり大きなものだったようです。


さて、「赤胴鈴之助」の映画化にあたっては、このラジオドラマをベースにしたとも云われ、映画“赤胴鈴之

助シリーズ”は1957年5月〜1958年12月の1年8ヶ月の間に9本も製作されており、第1作〜第7

作が梅若正二の赤胴鈴之助で、第8作と第9作が桃山太郎でした。


(1作〜4作モノクロ)「赤胴鈴之助」「赤胴鈴之助 月夜の怪人」「赤胴鈴之助 鬼面党退治」「赤胴鈴之

助 飛鳥流真空斬り」。(5作〜9作カラー)「赤胴鈴之助 新月塔の妖鬼」「赤胴鈴之助 一本足の魔人」

「赤胴鈴之助 三つ目の鳥人」「赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人」「赤胴鈴之助 どくろ団退治」の9作品です。


出演、金野鈴之助(赤胴鈴之助)/梅若正二・桃山太郎、竜巻雷之進(兄弟子)/林成年、しのぶ(鈴之助の

幼なじみ)/中村玉緒・浅野寿々子、さゆり(千葉周作の娘)/浦路洋子、千葉周作/黒川弥太郎、お藤(鈴

之助の母)/朝雲照代、お紺/春風すみれ、珠江/浜 世津子、金野鉄斉(鈴之助の祖父)/南部彰三、宝蔵

院岳林坊(祖父の仇)/光岡龍三郎、火京物太夫(祖父の仇)/尾上栄五郎、鬼首一江(鬼面党首領の娘)/

三田登喜子、大木蛮洋軒(山賊で鎖鎌の名人)/清水 元、他。


《あらすじ》金野鈴之助は両親の顔も知らぬまま、祖父の金野鉄斉に育てられた。鉄斎は道場を開いていたが

、或る日道場破りの火京物太夫と岳林坊に卑怯な手段で敗れ、病の床につく。(のちに鉄斎はその傷がもとで

亡くなってしまう)鈴之助は修行のため江戸に出て、亡き父と同門だった北辰一刀流千葉周作道場に入る。

そこで修行を重ね心と技を磨くが、兄弟子の竜巻雷之進との確執があり剣を交えることになる。かくして雷之

進は鈴之助との死闘を通して決闘で敗れはするが二人の間に友情が芽生える。

雷之進と鈴之助は江戸で辻斬り働いていた物太夫一味を蹴散らし、さらに幕府転覆を謀る鬼面党との闘いでも

雷之進と共に立ち向かう。しかし絶体絶命に追い込まれ、助けに入った大鳥赤心斎の“真空斬り”に救われる

。その後、鈴之助は富士山麓の大鳥赤心斎のもとに弟子入りし“真空斬り”を習得する。金野鈴之助は父親の

形見である赤い胴(防具)を着けることから“赤胴鈴之助”と言われ、必殺技の真空斬りで様々な敵に立ち向

かう。神社・仏閣から名宝・名器を奪い去って行く黒い翼を持つ一本足の魔人、江戸の町に現われ戌年生れの

子供を次々とさらう三つ目の鳥人、秘宝“慈光石”を狙って暗躍する六本の鉄の爪を持つ雷人、江戸の町を荒

すどくろ団など、悪人による様々な事件が起きるが、鈴之助は、いかなる苦難にも負けず正義と剣の道を貫い

て行く。


映画「赤胴鈴之助」の主役が梅若正二から桃山太郎に代わったいきさつは、当時18歳だった梅若正二が赤胴

鈴之助で一躍スターとなったため、その人気に有頂天になり京都での高級ホテル住まいや撮影所からの迎えの

車が国産車だと怒り外車に替えさせた、など高慢な態度をあらわにしたため大映から引導を渡されたもので、

主役を桃山太郎に交代させられてしまいました。

また、しのぶ役も中村玉緒が演じておりましたが、15歳の桃山太郎に合わせ浅野寿々子(浅野順子)10歳

(のちの大橋巨泉夫人)に交代しました。しかし、大映の思いとは裏腹に赤胴鈴之助の姿は梅若正二のイメー

ジが強く、桃山太郎の赤胴鈴之助は2作品で終了してしまいました。


テレビでは、ほぼ同時期に関西と関東の異なるテレビ局で二種類の「赤胴鈴之助」が製作されています。


関西版は、吉田豊明主演による「赤胴鈴之助」で1957年9月〜1958年10月まで全55回、現・朝日

放送がスタジオ生放送で放映しました。赤胴鈴之助役は一般公募の232名の中から選ばれています。


関東版は、1957年10月〜1959年3月まで全55回、現・東京放送(TBS)が放映しました。

赤胴鈴之助役は、こちらも公募により選出された尾上緑也(尾上松助・6代目)が小学4年生から小学6年生

まで足掛け3年間演じ、これもすべてスタジオ生放送だったそうです。

この関東版「赤胴鈴之助」がテレビ化されたときも、吉永小百合はラジオと同じ“さゆり”役でテレビにも初

デビューしました。

関東版「赤胴鈴之助」の後番組は「まぼろし探偵」で、このテレビ番組でも吉永小百合は吉野さくら役で登場

しています。

「赤胴鈴之助」のメンコは、私が調べた限りではすべて映画化されたもののメンコしか見当たらず、残念なが

らテレビ放映された時のメンコは作られなかったようで、吉永小百合が写っているものはありませんが「まぼ

ろし探偵」のめんこコーナーには、テレビ放映された当時の中学3年生の頃の可愛らしい吉永小百合が写って

います。

 

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