多羅尾伴内

 

 多羅尾伴内

戦後GHQによって、チャンバラ映画は軍国主義を煽りたてる危険があるとして禁止されたため、剣をピストル

に持ち替えて、名探偵・多羅尾伴内を主人公とする片岡千恵蔵のための現代活劇が作られました。

作品は1946年(昭和21年)〜1960年(昭和35年)の間、大映・東映で合わせて11シリーズが製作されて

います。第1作より、たいへんな大評判となり大ヒットを記録してチャンバラ映画解禁になってもシリーズは続

けられました。


映画「多羅尾伴内」のシリーズは、1946年「七つの顔」、1947年「十三の眼」、1948年「二十一の指紋」、

1948年「三十三の足跡」、1953年「片目の魔王」、1954年「曲馬団の魔王」、1955年「隼の魔王」、195

5年「復讐の七仮面」、1956年「戦慄の七仮面」、1958年「十三の魔王」、1960年「七つの顔の男だぜ」の

11作品(1〜4作は大映・5〜11作は東映)。


当初の作品である大映製作の「多羅尾伴内」(1〜4作)は興行的には成功しつつも、大映社長の評価低く、

片岡千恵蔵との間で考え方の相違もあり決裂、4作品で打ち切りとなってしまいました。やがて片岡千恵蔵は

大映と契約切れを契機に東横映画(のちに東映に合併)に移籍、1951年東映が創立されるとともに取締役

に就任し、1953年に多羅尾伴内シリーズを再開。7作品が作られ娯楽映画として大ヒットを記録して東映の

屋台骨を支えました。


多羅尾伴内は見かけは冴えない私立探偵であるが、かつては日本を震撼させた悪名高い怪盗で、その名を

藤村大造という。そんな彼は、これまでの罪を悔い改め正義のために悪と対決し社会のために活動している。

怪事件が起こると警察を訪れて情報を交換をしながら調査を開始する。多羅尾伴内こと藤村大造は変装の

名人で、調査にあたっては次々と目まぐるしく七変化をし、また抜群の推理力で犯罪一味を追いつめて行く。

そして最後に「あるときは片目の運転手、ある時はキザな手品好きの紳士、ある時はインドの魔術師、ある時

は老警官、そしてある時は画家、しかしてその実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」などと見得を切り、

扮装を剥ぎ取り事件の真相を解説したのち、コルトの二挺拳銃を構えて犯罪一味と銃撃戦のすえ勝利を収め

る。そうして事件を解決すると外車に乗って去って行くが、後には詩を書き残した一枚の紙切れが塀や電柱に

貼り付けてあり、それを見た助けられた被害者は感銘を受け余韻が残るという設定で映画は終了して行きま

す。

ちなみに、この時の使用した拳銃はすべて警察から借りた本物で撮影の度に警官に運んでもらっていたとの

事です。当時は、警察も戦後の娯楽映画の発展に協力した良き時代だったようです。


この「多羅尾伴内」シリーズの「十三の魔王」に若かりし頃の高倉健が出演しており当時26才(掲載めんこ参

照)、東映に入社して3年目の作品ですが、高倉健は31才位までは大スターとはいえず、片岡千恵蔵や美空

ひばりの映画作品の助演が多かったようです。

流れが変わったのは、32才のときヤクザ映画ブームの起点となる「人生劇場・飛車角」(1963年、鶴田浩二

主演)に出演し注目を集めてからで、1964年から始まる「日本侠客伝」シリーズ、1965年から始まる「網走

番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなりまし

た。

高倉健の東映入りは俳優に憧れて入ったものではなく、食べるためのもので、初めて顔に化粧をした自分を

鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったそうです。「お前の目は俳優の目じゃない」、「君は俳優に向いて

ないから辞めなさい」との厳しい批判もありました(本人談話より)が、反骨精神と誠実な演技力で苦境を乗り

越え、戦後の日本を代表する映画界の大スターとなり俳優達からは憧れの存在となりました。


平成25年11月には、それまでの実績が評価され文化勲章を受章しました。受章のコメントは「映画は国境を

越え言葉を越えて、“生きる悲しみ”を希望や勇気に変えることができる力を秘めている」 出演映画205本、

俳優人生58年をかみしめるような内容でした。

1955年、東映ニューフェースに採用されるも俳優養成所では「落ちこぼれでした」と回想し「『辛抱ばい』という

母からの言葉が支えだった」と82歳にして始めて明かしました。寡黙で剛直な個性はこの言葉から培われた

ものなのですね。

くしくも、その1年後の平成26年11月、悪性リンパ腫により83歳で生涯を閉じました。東宝では翌年の春から

夏にかけての撮影を目指し、作品の準備が進んでいたようで残念でなりません。

亡くなる4日前に完成させた手記に「出逢った方々からの想いに応えようと、ひたすらにもがき続けてきた」と

つづられていたそうです。


高倉健の訃報は、世界各国でも大きく伝えられ、中国紙の「北京青年報」では大々的に一面で報じ、高倉健主

演作「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)が、中国で文化大革命後に初めて公開された外国映画として爆発的

にヒットし、当時の中国人女性の間では、求める男性像について「高倉健を探せ」との国民的議論が起きたと

紹介。庶民に人気の高い「新京報」も10ページの特集を組んで詳しく報じ、中国中央テレビでは高倉健の死去

を速報したほか、夜には約30分の特別番組を組んだそうです。

米国のハリウッド芸能誌「バラエティー」は任侠映画で「ストイックな一匹狼」の役を演じて一時代を築いたと業

績を紹介し「伝説の人物」だったと伝えました。英紙「ガーディアン」は高倉健が米映画「ブラック・レイン」に出演

した時の写真付きで、訃報の記事を大きく掲載したそうです。

銀幕を支え続けてきた日本の名優の死に、世界の各地から惜しまれる声が聞かれました。


話は戻りますが、佐久間良子も、この「多羅尾伴内」シリーズの「七つの顔の男だぜ」に出演しており、東映に

入社して同じく3年目の時の作品で当時21才でした。(掲載実写めんこ参照)以降、東映の看板女優として数

多くの映画に主演し絶大な人気を得ました。


 

戻 る
inserted by FC2 system