神州天馬侠

 

  神州天馬侠

原作は、吉川英治の少年小説で「少年倶楽部」に1925年4月〜1928年11月(大正14年5月号

〜昭和3年12月号)まで連載され絶大な人気を博し、3冊の単行本となりました。


この原作を基に映画化され、古くは1928年(昭和3年)マキノプロダクション製作による「神州天馬

侠」(無声)第1編〜第4編が作られ、その後1941年(昭和16年)本郷秀雄主演による「神州天馬

侠 前・後篇」。1952年(昭和27年)長谷部健主演「神州天馬侠」。1954年12月〜1955

年1月藤間城太郎主演の短編映画「神州天馬侠」第1部〜第4部。(藤間城太郎、関連「小天狗小太郎」

角めんこコーナー)1958年9月10日「神州天馬侠」、同9月23日「神州天馬侠 完結篇」里見浩

太郎主演が作られました。

<ストーリー>

織田、徳川連合軍に倒された武田勝頼の次男・武田伊那丸が、忠臣たちと御家再興のために戦う冒険物語

です。武田氏が滅ぼされたとき、少年・伊那丸はかろうじて難をのがれました。物語が進むにつれ、伊那

丸に付き従う者たちが集結してきます。力自慢の加賀見忍剣、戒刀をふるう木隠龍太郎、山大名の娘で胡

蝶の陣をあやつる美少女・咲耶子(さくやこ)、槍つかいの巽小文治(たつみこぶんじ)、弓の名手・山

県蔦之助(やまがたつたのすけ)、軍師・小幡民部、大鷲に乗る少年・竹童らです。

対する敵は武田家の重臣でありながら敵に通じた穴山梅雪、咲耶子の父の仇で盗賊(妖術を操る怪人)の

和田呂宋兵衛。これらに交じって歴史上の有名人が登場します。

秀吉は、伊那丸に好意的な立場であり、家康は、伊那丸の敵です。このように物語のフィクションに歴史

上の人物が織りこまれ、多彩な登場人物と入り組んだ筋書きで古さは感じられず、少年小説でありながら

大人も楽しめる娯楽時代劇作品に仕上がっています。


掲載めんこの「神州天馬侠」は、最後に映画化された里見浩太郎主演のもので、大西秀明監督による東映

製作の映画作品です。本作で里見浩太郎(当時21才)が主演として一番最初に名前がでてきますが、実際

には脇役的存在で、劇中では美剣士で歌を披露したりアイドル的な扱いになっているようです。


里見浩太郎の芸能界入りは、静岡の高校を卒業後上京し東京築地の魚市場で働いていましたが、19才の

時に東映の第3期ニューフェースに合格し東映に入社しました。

当時の東映は、東京は現代劇、京都は時代劇とはっきり分かれており「東京に行くか、京都に行くか自分

で決めなさい」と言われた時、里見浩太郎は時代劇が好きだったので、すかさず「京都に行きたい」と答

えたそうです。しかし、初めて羽二重を付けカツラをかぶった時に鏡で見て「いやーしまったー、なんで

京都なんて言ったんだろう」と思ったそうです。「まったく自分では無く、間が抜けており、ああこれは

もう駄目だ」「いまさら現代劇に行かしてくれて言えないしなーなんて思いましてね、2〜3日ショック

で眠れませんでした」と、その時の心境を1979年テレビ放送の「徹子の部屋」(当時42才)で後日談

として話しています。 しかし、その後、映画やテレビで数多くの時代劇に出演し「50才になった時に

大石内蔵助と言う良い役を頂いて、それをやらせてもらった時に、別に慌てなくても良かった、周りをゆ

っくり見て歩けばいいんだと気が付きました。それで僕の座右の銘が『ゆっくりと一歩』そこで生まれた

んです」と、これも85才の時の「徹子の部屋」で語っています。長年の経験を基に、時代劇俳優の地位

を不動のものとして、今では“時代劇の大御所”とまで言われています。


「神州天馬侠」のストーリー上は、武田伊那丸役の沢村精四郎(二代目、沢村藤十郎)が主役で当時14才

、この映画がデビュー作でした。(沢村精四郎、関連:「猿飛佐助」「紅孔雀」角めんこコーナー参照)


出演、巽小文治/里見浩太朗、武田伊那丸/沢村精四郎、加賀見忍剣/五味勝之介、木隠竜太郎/尾上鯉

之助、鞍馬の竹童/植木基晴、咲耶子/円山栄子、山県蔦之助/南郷京之助、小幡民部/小柴幹治、穴山

梅雪/瀬川路三郎、和田呂宋兵衛/吉田義夫、果心居士/薄田研二、徳川家康/柳永二郎、根来小角/中

村歌之介、美登利/高島淳子、丹羽昌仙/堀 正夫、轟伝内/小田部通麿、武田勝頼/立松 晃、竜巻九

郎右衛門/青柳竜太郎 、他。


また、テレビでは1961年7月〜1961年12月まで全26回、長岡秀幸主演による「神州天馬侠」

が、フジテレビで放映されました。

この中で“泣き虫蛾次郎”役を演じていたのが佐藤蛾次郎で、この年、日本電気技術専門学校に入学した

ばかりでしたが、この出演を切っ掛けに芸名を佐藤蛾次郎とし、専門学校を中退して俳優の道に進みまし

た。以降、山田洋次監督に見い出され「寅さんシリーズ」に出演することになります。


佐藤蛾次郎は、山田洋次監督の「吹けば飛ぶよな男だが」でチンピラ役の準主役として松竹映画デビュー

し、その後、テレビ版の「男はつらいよ」に途中から寅次郎の弟分としてレギュラー出演、最終回に奄美

でハブを捕って金稼ぎしようと2人で奄美へ行くが寅だけハブに噛まれて死んでしまい終了。ところが視

聴者から「なんで寅を殺すんだ!」とテレビ局に電話が殺到。しかし、寅は死んだ設定で終わらせた以上

テレビで再び制作出来ず考えたあげく「もったいないので映画にしよう」となったそうですが、山田洋次

監督は「テレビでヒットしたからって」と、あまり乗り気でなく「まあ1本だけなら」と映画化したもの

で、その第1作も、山田洋次監督は、そんなにいい出来だと思ってなかったそうです。しかし、封切った

ところ予想に反して大好評で、続、第3作、第4作と、その後50作まで続くことになりました。


第10作の「寅次郎夢枕」では、山田洋次監督と渥美清は、蛾次郎がお金が無く、籍は入れたが結婚式を

上げていない事を知り、映画の冒頭で「とらや」へ近所の花嫁が白無垢姿で挨拶回りをする場面を作り、

蛾次郎の妻を起用しカット終わりに、蛾次郎には衣裳部に唯一あった紋付き袴を借りて、結婚式のような

記念写真を皆で撮ったそうです。この時の写真撮影は、たまたま渥美清の取材に来ていた篠山紀信に渥美

が頼んで撮影してもらったそうで、蛾次郎は、この時の思いやりのある優しさに感激したそうです。


渥美清と蛾次郎の関係は公私共に仲の良い付き合いで、渥美清を兄貴分として慕ってよく飲みに行ったそ

うです。山田洋次監督も渥美清も酒は嗜まず、また、山田洋次監督は渥美清の自宅も知らなかったそうで

すが、蛾次郎だけは知っており、私的な渥美清は寡黙でしたが蛾次郎とだけはよく飲みに行き(渥美は酒

は飲まず)支払いもしくれ可愛がってくれたそうです。また、六本木のバンドが入っているバーでの出来

事を蛾次郎は『渥美さんが「蛾次郎“寅さん”歌えるか」「もちろんです」「じゃ、おれが仁義切ってや

るから、歌はお前が歌え」で、渥美さんが「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です」とかやって、歌は

僕が歌った。お客さん、大喜びですよ。でも、「そんなことする人じゃない」って、松竹の誰も信じない

んだ。渥美さんの古い仲間の関敬六さんでさえ信じなかった』と当時のことを振り返っています。


蛾次郎は、渥美清が亡くなり報道陣の取材を受けた後、一人になったとき涙が出たそうで『その後1年以

上「男はつらいよ」の音楽を聴くと涙が止まらなかった』と語っていました。

蛾次郎の俳優人生は、ほとんど脇役でしたが「寿司や刺身に例えればワサビのような物でありたい」と語

り、6年前に亡くなった愛妻を追うように虚血性心不全により78才で自宅浴室で突然亡くなりました。


なお、その後のテレビによる「神州天馬侠」は、1967年6月〜1967年12月に松竹(テレビ室)

制作、黒田 賢主演による「神州天馬侠」全29回が朝日放送で放映されました。


絵物語としても、「おもしろブック」(少年ブック)に吉川英治・作、大城のぼる・絵で1955年1月

〜1955年12月まで連載されています。

 

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