力道山 他

 

 

  力道山

日本で初めてプロレスの公開試合がテレビ中継されたのは、1954年2月の力道山・木村政彦対シャープ

兄弟のタッグマッチで3日間に亘り中継され、全国53ヶ所に設置された街頭テレビには多数の観衆で埋め

尽くしプロレス試合に熱狂しました。これで一躍、力道山の人気が爆発し、以後、国民のヒーロー的存在と

なりました。また、テレビが日本に普及したのは、力道山の試合が観たかったからとも言われており、如何

に力道山の人気が高かったかが分かります。


力道山は1924年11月に朝鮮半島で生まれ、本名は金信洛。朝鮮半島の格闘技シルムの選手として頭角

を現し、日本人の百田巳之助にスカウトされ、1940年相撲の二所ノ関部屋に百田光浩として入門、力道

山の四股名で1949年5月場所に於いて関脇となるが、翌年の1950年大関取りが懸かった9月場所前

に突然相撲界から引退。百田(ももた)の戸籍に長男として入籍し百田光浩となる。

この突然の引退は、力道山が親方に「結婚するのでお金を貸してほしい」と頼んだところ、嫌な顔をされ、

良い返事がもらえなかったため、力道山は「将来、大関・横綱になりますから」と言うと、親方は「朝鮮籍

の力士は大関・横綱になれないんだ」と言った為、気性の強い力道山は、すぐに台所に行って髷をぶち切っ

たそうです。(相撲界での成績は、幕内通算11場所、75勝54敗。弟弟子には、初代若乃花がいます)


1951年10月プロレス慰問興行のため来日中の、当時ハワイの英雄として売り出し中であった日系二世

プロレスラーハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い、プロレスに誘われプロレス界入りを決意。

1952年2月力道山はハワイ興行に参加。同年6月米国本土を転戦し通算295勝5敗の成績で知名度を

上げ、翌年の1953年力道山は帰国し、後援会長の新田新作を社長に日本プロレス協会を設立。

以降、プロレス界に尽力し、獲得したタイトルは、日本ヘビー級王座、世界タッグ王座、WWA世界ヘビー

級王座、インターナショナル・ヘビー級王座、アジアヘビー級王座、アジアタッグ王座、ハワイ太平洋タッ

グ王座などがあります。

力道山のリングでの闘いは、白人レスラーと東洋人の体格差があるにも拘らず互角に闘い、しかも白人レス

ラーが何度反則をしても力道山は決して反則をせず、必殺の空手チョップの連打をあびせ、屈強なレスラー

をなぎ倒す勝利に観衆は熱狂し、戦後の敗戦国の民衆に夢と希望を与えました。

残念ながら現役中であった1963年12月遊興中の赤坂のナイトクラブで暴漢に刺され死去、享年39歳

。戦後の昭和期を駆け抜けた国民のヒーローとして功労を称えられ日本プロレス界の父と言われています。


 

関取時代の力道山(参考写真)

 

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