石原裕次郎 石原裕次郎は、1934年12月28日兵庫県神戸市で生まれ、1937年に父の転勤に伴い北海道 小樽へ転居、1943年、9歳のとき再び父の転勤により神奈川県の逗子に移りました。 1951年、尊敬する父の脳溢血による急死で、私生活が乱れ、酒・女・麻雀・ケンカ三昧の日々が 慶大法学部へ進学するまで続きました。 大学在学中から、俳優を目指し東宝・大映・日活のオーディションを受けるもすべて不合格。しかし 1956年に日活のプロデューサー水の江滝子から、兄・慎太郎が芥川受賞作「太陽の季節」の映画 化を促された時、「弟の裕次郎を出してくれるなら」という条件を提示し、滝子がその条件を呑み、 主人公の友人役で出演することになりスクリーンデビューを果たしました、当時21才。好評を得て 翌年の1957年に慶大を中退し待望の日活に入社。そして、同じく慎太郎原作の映画化作品「狂っ た果実」で主役を演じ人気が沸騰し、以降、若い女性の間で“裕ちゃんブーム”が巻き起こり裕次郎 作品は次々に企画され大ヒットとなりました。 また、この映画「狂った果実」では、出演した相手役の北原三枝と後に結婚しており、映画俳優の道 に進めたのも、生涯の伴侶を見つけたのも、兄・慎太郎がいたからこそではないでしょうか。
たナイフ」「銀座の恋の物語」「赤いハンカチ」「二人の世界」「夜霧よ今夜も有難う」など数々の ヒット曲を飛ばし日本レコード大賞・日本歌謡大賞・日本有線大賞などを受賞。
のテレビ番組「西部警察」や「大都会」は高視聴率を上げ好評を博しました。
ことでは定評があったそうです。また石原プロモーションが倒産の危機に瀕したときには、家のない 社員全員に家を建ててプレゼントしたという豪快さも持ち合わせていました。 座右の銘は「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったこと は生涯(一生)忘れるな。」だったそうです。素晴らし言葉ですね。
して語り継がれています。(享年52歳) |