天下の暴れん坊 猿飛佐助

 

  天下の暴れん坊 猿飛佐助

東映が沢村精四郎(二代目 澤村藤十郎)当時17歳を主役に抜擢しテレビ用に製作された忍者時代劇で、

テレビ朝日が1961年1月〜1961年6月まで全26回テレビ放映し好評を博しました。

東映は引き続き、沢村精四郎主演による「新諸国物語 紅孔雀」1961年8月〜1962年4月全39回

、「白鳥の騎士」1962年7月〜1963年3月全26回を立て続けに製作し、同じくテレビ朝日により

テレビ放映しています。

出演 : 猿飛佐助/沢村精四郎、真田幸村/大村文武、三好清海入道/山口 勇、小百合/三沢あけみ、そ

の他出演者、三島良二、秋山 敏、森 純子、岩上 瑛、高原秀磨、向 精七、星  徹、当麻興次、日尾

孝司、桜井基男、萩 京子、他。


沢村精四郎は、八代目 澤村 宗十郎の次男として生まれ、1957年 歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」の一

力の娘お久で澤村精四郎(さわむら きよしろう)を名乗り初舞台、当時13才。翌年の1958年東映に

移籍し「神州天馬侠」で主演デビュー。東映制作の映画やドラマに出演したのち、1964年 20才の時

に歌舞伎界に復帰。1969年には第19回芸術選奨新人賞を受賞し、1976年 二代目澤村藤十郎を襲

名、歌舞伎界では父親同様 女形として活躍しました。


このテレビ時代劇に、小百合役で三沢あけみが出演しています、当時16歳(上記、写真めんこ3枚参照)

三沢あけみは、サラリーマンの家庭に生まれ、子供の頃から歌手に憧れ、14歳のときに東映ニューフェー

スに応募。女優になりたかった訳ではなく、ちょうど夏休みだったこともあり「撮影所を見てみたい」との

好奇心で、14歳でしたが応募用紙には16歳と書いたそうです。応募資格は16歳以上とのことでしたが

、母親が「お化粧すれば大丈夫」と勧めてくれ、姉の洋服やイヤリング、ハイヒールを借り試験に臨んだそ

うです。そして合格通知が来ましたが、最終面接で年齢が14歳と分かり、これまでとなるはずが「特例と

して、学校の許可があれば採用しよう」と言うことになり、学校の承諾をもらい女優になったそうです。


この東映ニューフェース合格の翌年には、テレビ時代劇「笛吹童子」1960年5月〜1960年12月ま

でテレビ朝日放映の中で、北大路欣也17歳の相手役として女優デビューを果たしました。

当時は夜7時からの生放送で、北大路欣也も学生であり、お互いに学校が終わってからリハーサルをして本

番に備えたそうです。

そして翌年の1月には、この「猿飛佐助」に出演し同じテレビ朝日のテレビ時代劇として放映されました。


女優となった三沢あけみが歌手になる切っ掛けは、今も映画の封切り日には主要キャストの舞台挨拶が行わ

れますが、当時はスター俳優達が登壇する前に新人が前座として一曲歌い場を盛り上げるのが慣例で、三沢

あけみがその前座で得意の歌謡曲を披露していたところ、評判をよび「あの子は女優より歌手の方が向いて

いる」となり、歌手に転向することになったそうです。

しかし、17歳でビクターレコードから歌手デビューしたものの、デビュー曲「ふられ上手にほれ上手」が

“お色気ソング”のレッテルを張られ、放送倫理規定に触れるとの理由で放送禁止になってしまいました。

ところが不思議なもので、逆にそのことがスポーツ紙などで話題になりレコードが売れ始め、思わぬヒット

につながったそうです。それでもテレビやラジオでデビュー曲が歌えない三沢あけみを不憫に思ったのか、

ビクターレコードは、新曲「島のブルース」を人気絶頂の「マヒナスターズと松尾和子」に歌わせる予定だ

ったものを急遽、三沢あけみに方針を変え「三沢あけみとマヒナスターズ」でレコードを売出すことになり

ました。それが予想を遥かに超えるミリオンヒットとなり第5回日本レコード大賞新人賞を受賞し、第14

回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たしました。

そして18歳でプロマイド売り上げナンバーワンになり本物のアイドルとなり、映画やドラマでも女優とし

て活躍しながら歌手活動を続けNHK紅白歌合戦には5回出場し本格的な実力演歌歌手となっています。

 

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