忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻 「忠臣蔵」は吉良邸討ち入り事件の4年後の、宝永3年(1706年)に、この事件を題材とした人形浄瑠璃 「碁盤太平記」が竹本座で上演されたのが始まりとされ、以降、浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となり、数作品が 作られました。 しかし、この時代は、江戸幕府から同時代の武家社会に対する事件を上演することは固く禁じられていた為、 "忠臣蔵物"は舞台を別時代とし、登場人物も他の歴史上の人物に仮託して上演しなければなりませんでした。 明治以降は、幕府への配慮が不要となったため、登場人物なども実名で上演することができるようになりまし たが、第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われ日本国内での報復運動の高まり を恐れ、『忠臣蔵』事件を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとして、当事件を題材とし た作品の公演や出版等が禁止されました。 その後、1947年11月に条件付きで歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」が解禁となり、東京劇場で復活上演され、 初日から満員御礼で切符を求める客が殺到しました。
を『いろは四十七字』にかけて「仮名手本」とし、歌舞伎の人気が衰えた時に興行すると必ず客足が戻ってく ると言われるほどの大ヒット作です。
こうした変遷の中で、「忠臣蔵」は、歌舞伎・人形浄瑠璃・映画・テレビドラマ・小説・評論など様々な分野 で取り上げられましが、映画においては日本の映画史上で最も多く作られた作品の一つではないでしょうか。
東映の同題材では、かなりの自信作で期待度も高かったようです。東映オールスターキャストで、時代劇の 東映が、その最全盛期に総力を結集し製作したもので、当時としては桁外れの5億円もの巨額を投じたと云 われる大作です。監督も東映の中では時代劇を撮らせては当時ナンバー1と言われた松田定次監督を起用し ています。 掲載のめんこは、映画館で入館者に配られたものと思われますが、主な配役を写真めんこにして配ったのも 期待度の表れではないでしょうか。(3枚しか無いのが残念です) 1959年1月15日劇場公開された「桜花の巻」は、浅野内匠頭の刃傷でお家断絶となった大石内蔵助が 赤穂城を去るまでを、「菊花の巻」では内蔵助ら浪士が吉良邸討ち入りまでを描いてます。 この「忠臣蔵」は、二部構成(3時間)とはなってますが劇場では一挙公開されました。
裕見子、お幸/千原しのぶ、糸路/丘さとみ、内匠頭夫人/大川恵子、おかる/桜町弘子、初音太夫/花園 ひろみ、主水/高島淳子、玉乃/円山栄子、青柳太夫/雪代敬子、小桜太夫/喜多川千鶴、浦路/星美智子、 白菊太夫/花柳小菊、りく/木暮実千代、岡島八十右衛門 /東千代之介、原惣右衛門/宇佐美淳也、片岡源 五右衛門/原健策、三村次郎左衛門/加賀邦男、小野寺十内/沢村宗之助、横川勘平/小柴幹治、菅野三平/ 片岡栄二郎、赤埴源蔵/徳大寺伸、おとわ/松浦築枝、清吉/星十郎、久兵衛/杉狂児、長吉/堺駿二、多 右衛門/榎本健一、おたか/美空ひばり、上杉綱憲/中村賀津雄、早水藤左衛門/尾上鯉之助、前原伊助/ 南郷京之助、矢頭右門七/沢村精四郎、お空/植木千恵、大三郎/植木基晴、大石主税/北大路欣也、綱吉/ 里見浩太郎、岡野金右衛門/大川橋蔵、千坂兵部/山村聡、土屋相模守/市川小太夫、梶川与三兵衛 /阿部 九州男、柳沢吉保/三島雅夫、荘田下総守/加藤嘉、清水一学/清川荘司、鈴木元右衛門/吉田義夫、田村右 京太夫/石井一雄、小林平八郎/岡譲司、大野九郎兵衛/柳永二郎、多門伝八郎/小沢栄太郎、吉田忠左衛門 /大河内伝次郎、堀部弥兵衛/薄田研二、不破数右衛門/山形勲、吉良上野介/進藤英太郎、橋本平左衛門/ 月形龍之介、脇坂淡路守/市川右太衛門、他。
万人を記録しており、昭和30年代前半の日本の総人口は9千万人強でしたから、生まれたての赤ん坊から 老人までひっくるめて、当時の日本人は月1回ペースで映画を観ていたことになります。 1960年当時、映画館の入場料は平均72円、ラーメンが45円、コーヒーは60円、たばこのハイライト 1箱は70円。地方から就職列車で上京した「金の卵」たちが休日を過ごすうえでも、映画は決して高くない 娯楽でした。 その中でも、「遠山の金さん」の片岡千恵蔵、「旗本退屈男」こと市川右太衛門、「鞍馬天狗」「若さま侍」 「丹下左膳」「里見八犬伝」など数多くの人気シリーズを抱えた東映時代劇は娯楽の中心でした。 映画界全体の興行収入のうち約8割を邦画が占め、その中の4割が東映作品。その7割以上が時代劇だったそ うです。週替わりで2本立ての映画興行を行っていた東映は、まさに時代劇がドル箱。東映が1955年〜 1964年に製作した時代劇映画は684本に上りました。
館の入場料が72円の時代、5億円もの製作費がいかに巨額であったかが分かります。 また、この当時の映画上映は2本立てが常識でしたが「忠臣蔵」二部作は集客力を見込み2本立て用として製 作され一挙に劇場公開したのも自信の表れではないでしょうか。
代劇終焉がくるのを誰もが予想もしなかった時代でした。 (参考、読売新聞、昭和時代、第一部30年代)
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