わんわん忠臣蔵 東映動画スタジオの長編アニメ映画第7作目「わんわん忠臣蔵」は1963年12月に劇場公開され、 海外ではベニス国際児童映画祭オゼエラ・デ・ブロンド賞を受賞しました。 ディズニーの「わんわん物語」や「101匹わんちゃん大行進」を意識して作られた作品ですが、動物 アニメーションの技術、テクニカルな画面処理技術を駆使した映像は、それまでの日本アニメーション 映画にはない、新しい可能性を予見させる素晴らしい作品となっています。
東映動画の意向とは合いませんでした。手塚治虫は当初、「森の忠臣蔵」というタイトルで絵コンテま で執筆していたのですが、企画会議の果てに路線が変更され、完成した作品には手塚治虫のアイデアは あまり採用されていないという結果になりました。
場版長編アニメーションの制作を日本でも独自に行なおうと、東映社長が香港からの持ち込み企画であ った「白蛇伝」の制作をスタートさせたのが始まりで1958年に日本初の本格カラー長編アニメーシ ョンとして成功させました。 東映動画の第2作目は「少年猿飛佐助」で、時代劇アニメにも関わらず海外では高い評価を受けました が漫画映画としての面白さに欠けた為、後続のアニメ映画はオリジナル作品を諦め手塚治虫に話が持ち 込まれました。東映動画スタジオと手塚治虫の関係はここから始まったようです。
遊記」は制作期間目標は半年でしたが、実際の制作期間は3年を費やしており、制作費5千万円強を、 できるだけ削減しようと人件費を抑えたため、動画・原画部門のスタッフの基本給は低く、残業をして 生活費を稼ぐという労働条件下でスタッフ60名の内10名が制作期間中に過労入院したそうです。 おりしもディズニーが「眠れる森の美女」を、制作期間6年、制作費22億円の巨費を投じて全国上映 している最中でした。完成度においては、やはりディズニー映画には及ばなかったようです。 (西遊記の詳細は「西遊記」角めんこコーナー参照)
当時、東京地区の劇場で「わんわん忠臣蔵」と同時上映されたのが、テレビアニメの「狼少年ケン」で した。それまで東映動画はディズニー映画のような長編アニメにこだわってきましたが、時代の趨勢は テレビアニメへと移行し始めており、東映動画もこの流れに乗り遅れまいと初のテレビアニメ「狼少年 ケン」を制作しました。テレビアニメは手塚治虫が「鉄腕アトム」で初めて考案した3コマ撮りや、止 め絵・バンクシステム(特定シーンの動画や背景を保存して使い回しする)の多用などにより制作費の 省力化を図り、またアニメの短期制作を可能にした画期的な制作方法でした。この制作方法により日本 に本格的なテレビアニメの時代が始まり、長編動画アニメからテレビアニメへと時代は移って行くこと になります。 <わんわん忠臣蔵のストーリー> ロックの母、メスイヌのシロがトラのキラーに殺された。幼いロックはただ一匹で、キラーに立ち向か おうとするが、とても無理、危うく命を落とすところを、森の仲間たちに救われ、大人になるまで町で 暮らすことになる。勇敢なロックは、じきに町の野良犬たちに一目置かれるようになった。恋人のカル ー、それと力強い仲間を得たのだ。これを知ったキラーの手下キツネのアカミミは策略を使って、ロッ クを倉庫に閉じ込め、倉庫荒らしの犯人に仕立てた。倉庫番に捕まったロックは樽に入れられて海に投 げ込まれてしまう。 その頃、森の動物たちは人間の山狩りにあって、みんな動物園に入れられてしまった。獲物のなくなっ たキラーはアカミミの勧めにしたがって自ら動物園に入った。そうすれば飢えないですむというわけだ 。動物園のなかでも、動物たちはキラーとアカミミに苦しめられることになる。 一方、海になげ込まれたロックは幸い島の小さな女の子に救われ、養われていたが、動物たちの運命を つばめから聞いて、いてもたってもいられなくなって島を抜け出した。 町の野良犬たちとの再開を果たしたロックは、いよいよ母の仇のトラ退治に向かう。キラーは配下の猛 獣たちを動員して、雪の降りしきる動物園から遊園地を舞台に、激しい戦いが続く。 そしてついに、ロックたちに凱歌があがった。ロックとカルーを先頭に堂々と大通りを行進する野良犬 たちが勇ましい。(東映アニメーションより) |